上田修也の日常

物事を根本的な視点から考え、熟考していく記事を書きます。

第一弾 世界とは何か?<No3> 時間と次元(奇跡の人生が豊かになる特別講義)

 写真AC 

時間と次元。一見、相互違う言葉に感じますが実は共通点があるのです。それは両方とも人間が作り出した概念だということです。

「時間」という言葉は、

  1. 空間と共に、認識のまたは物体界の成立のための最も基本的で基礎的な形式をなすものであり、いっさいの出来事がそこで生起する枠のように考えられているもの[6]

 

3. の意味の時間、すなわち哲学的概念としての時間は、まず第一に人間の認識の成立のための最も基本的で基礎的な形式という位置づけである。カントなどの指摘に基き現在まで用いられ日々用いられるようになっている意味である。広辞苑では3.の「時間」は、1.と 2.の両方を併せたような概念、とも解説されている[2]

当記事では3. や 1.を中心として解説する。2については基本は別記事「時刻」で扱うが、(広辞苑でも解説されているように)3.の意味の時間は1.と2.を併せたような概念なので、2.の意味についても適宜言及する。

3.について

時間というのはあまりに基礎的で、あまりにとらえがたく[注 1]、人は比喩を用いて“流れ”と表現する[9]。人間にとって理解しやすい川の流れなどに喩えている[9]。人間というのはとらえどころのない対象については比喩を用いて表現し、それを理解のきっかけとして用いようとする[9]。ただし、比喩というのは、異なるものどうしを結びつけて用いるものなのであり、つまり実は本当は、「時間」は「流れ」ではない[9]。時間は本当は"流れ"ではないからこそ、比喩として成立している[9][注 2]。時間を「流れ」に譬える比喩としてはたとえば、「過去から未来に絶えず移り流れる[5]」とか「過去・現在・未来と連続して流れ移ってゆく」[3]とか「過去・現在・未来と連続して永久に流れてゆくもの」[8]とか、「過去から未来へと限りなく流れすぎて」[6]とかがある。時間を「流れ」として比喩的にとらえることに関しては、「過去から未来へと流れている」とする時間観と、「未来から過去へ流れている」とする時間観がある。 時間というのは人間にとっては比喩で表現して理解のとりかかりにしようとするくらいがせいぜいであり、正攻法で知的に考察しようとすればするほど困難に突き当たり理解しがたいものなので、時間について考察したアウグスティヌスは「私はそれについて尋ねられない時、時間が何かを知っている。尋ねられる時、知らない[10]」と述べた。

 

 

 

 

次元(じげん、Dimension中国語維度)は、空間の広がりをあらわす一つの指標である。座標が導入された空間ではその自由度を変数の組の大きさとして表現することができることから、要素の数・自由度として捉えることができ、数学計算機において要素の配列の長さを指して次元ということもある。自然科学においては、物理量の自由度として考えられる要素の度合いを言い、物理的単位の種類を記述するのに用いられる。

直感的に言えば、ある空間内で特定の場所や物を唯一指ししめすのに、どれだけの変数があれば十分か、ということである。たとえば、地球は3次元的な物体であるが、表面だけを考えれば、緯度・経度で位置が指定できるので2次元空間であるとも言える。しかし、人との待ち合わせのときには建物の階数や時間を指定する必要があるため、この観点からは我々は4次元空間に生きているとも言える。

超立方体正八胞体は四次元図形の例である。数学と無縁な人は「正八胞体は四つの次元を持つ」というような「次元」という言葉の使い方をしてしまうこともあるが、専門用語としての通常の使い方は「正八胞体は次元(として) 4 を持つ」とか「正八胞体の次元は 4 である」といった表現になる(図形の次元はひとつの数値であって、いくつもあるようなものではない)。

また、転じて次元は世界の構造を意味することがある。